「玄関」の句、鈴鹿の共選で全没というのはさすがにあまりないことなので思わず声に出してしまいましたが、改めて読むとわかりにくい句や作りごとだったかなあとも思います。
「没句転生」に採り上げてもらい、柳歩さんの見解が読めるのを期待しましょう。
合評の席で、りゑさんは確か「事実でなくても句にしていいの?」と言われたと思います。
「事実」や「真実」という言葉の定義をきちんとしないと議論がかみ合わないので、この場で深い議論をする気はあまりないのですが、仮に「事実」を「自分で見た(聞いた、その他も含む)あるいは確かめたこと」だとすると、それしか句にできないなら句の幅は極めて狭いものになるし、意外性のある句や暗喩の句は作りにくくなってしまいます。
ある合評の席で、こんなことがありました。
「寝室の四隅にたまる綿埃」という句が出されたのですが、共感は呼ぶけどあまりに意外性がない。
そこで「寝室を犬小屋にしては?」と言うと、いま一つという雰囲気。
「手術室は?」と言うと、それはない(まさに「事実ではない」)だろうと。
しばらく考えたある方から、「国会は?」という提案。
国会の四隅にたまる綿埃
これ、事実ではない(少なくとも、事実であるとその場にいた人の誰も確かめていない)けど、比喩をうまく使った、真実(ここでは、「事実の奥にある本当のこと」のような意味と取ってください)味のある句だと思いませんか。
その場では意外性があり納得もさせる句だとみんなが感心し、気持ちよく合評が進みました。
事実云々から思い出した、最近のできごとです。
なお、いわゆるなしすましの句に関連して、新家完司さんが『川柳の理論と実践』で、「『自分を詠う』と『他人を詠う』」としてたいへんわかりやすく勉強になる考察をしていらっしゃいます。
一読をお勧めします。
細かいことを言って申し訳ないですが、私はりゑさんの発言に対し自分の考えを述べただけで、さとでも、もちころんここでも、りゑさんを「指導」したつもりなど毛頭ありません。
例会の合評も、経験年数の長い人と短い人、指導的立場の人と教えを請いたい人など様々な人がいますが、あくまで対等の立場での「合評」だと考えています。
句について率直な意見や疑問を言い合う中で、各人が自分がよいと思った考えを取り入れたり、自分の考えを確立したりしていけばいいと思っています。
私自身、「指導的」な言い方になってしまうことも多々ありますが、気持ちとしては「私はこう考える」という発言のつもりです。
課題吟の問題点や役割については、これまで「柳論自論」でさんざん書いてきましたが、どれだけの人が真剣に読んでくださったかは不明です。
課題吟について、殆どの人は入選第一主義で「抜けなければ始まらない」と考えているのが現実でしょう。私が、りゑさんの披講のあと、「全没だった」と口走ったのもその現れで口にすべきことではなかったですね。
「川柳は便所の落書きだ」と決めつけたのは寺山修司ですが、川柳(課題吟も)の出発点は「俳風柳多留の文芸性に還れ」と呼びかけた「川柳中興の祖」である坂井久良木と井上剣花坊でした。落書きで終わらせない(文芸生を確保する)ためには、嘘事、作り事、悪ふざけの句は避けなければならないのはもちろんですが、句の中に「自分が存在する」ことが必要です。一見、作り事に見えても、その中に作者の見解が汲み取れれば自分が存在します。事実でも、入選したいがために課題にかこつけて「原爆の被害者」や「拉致の非条理」を詠んだのであれば、文芸作品とは言えません。かといって真実を高らかに詠っても白々しいし、その辺の見極めが選者には要求されりので、選句はむずかしいですね。
パソコンを開けると、先ずすらスパムの削除から取りかかります。煩わしいですがやむを得ません。編集作業など、仕事が山積しています。