二泊三日の旅になるので川柳関係の荷物の他、着替えや背広も必要。もういなくなった愚息の部屋にあったキャリーケースを初めて使わせてもらうことにする。台風が近付いているので、新幹線の東京着が少しでも遅れると、東北新幹線への乗り換えが間に合わないかも知れないので、前日、亀山駅まで行って、ちょうど一時間ほど早めてもらう。
三河-安城間で減速運転したけど東京には予定通り着く。新青森駅にも予定の時間に着き、迎えに来ていただいた東奥新聞社文化部のYさんと、タクシーで川柳大会会場近くのホテルに着いたのは17時20分頃。連泊であるが予約も代金もすべてYさんがしてくださってあった。
18時に再びYさんが迎えに来てくださり会食会場に。すでにT氏と東奥日報社の事業局長のAさん、次長のTさんが待ってくださっていた。
「青森の刺身を食べたら余所の刺身は食べられない」と以前、全日本青森大会に来たとき霜石さんが仰っていたが、確かに舌の肥えていない私の舌でも実感した。ホヤもたくさん賞味したが何と表現したらいいのか解らない味だった。
基本的に下戸の私は生ビール2杯で出来上がったが、他の方々は相当の酒豪。積もる話に青森の夜は更けていったのである。
大会の前日でも眠れる私なのだが、枕が変わるとそうはいかない。それに明日は講演という大役がある。原稿を読み直してみたら、どうも一時間では収まりそうもない。レジュメに書いた「川柳のお話」の7項目のうち、2項目をカット(省略)することにする。会食のときに頼まれた、表彰式の後での「締めのメッセージ」を考えて手帳に書き留めておいた。
大会当日の午前11時、東奥日報社のA文化部長Aさんに迎えに来ていただく。会場では席題が発表され、参加者は作句に掛かっている時間である。実は私にも投句用紙が送られてきたので、大急ぎではあったが、恥をかいてもいけないので熟考して送ってあったのだが、「特別選者の投句は前例がない」ということで却下。がっかりしたやらホッとしたやら、であった。
11時20分から12時20分の1時間のつもりだったが特別選者の紹介などもあり、5分ぐらい遅れて登壇。2項目をカットして正解だった。
講演内容は A.川柳との出会い
C.選者と軸吟の話
E.光太夫賞の話
F.袋回しの話
F.リズムの話
省略したのは、B.桑原武夫とR.Hブロイスの話
D.ホームページの話
であった。
事前投句の投句者は88人、当日出席者は77人だったかな? 当初は200人くらい集まるのかと思っていたので意外と少ない。時節が悪いのか、昨年もほぼ同じ数だったようだ。霜石さんは席題の選者であったが、体調不良ということで欠席。たいへん残念なことであった。
13時20分から宿題選の披講、全て2名共選である。平抜き20句、秀逸5句、天地人各1句で、1唱、天の句のみ2唱ということであった。私の特別選のみ、3才(天地人)はすべて2唱ということであった。
2唱とは2回読みではなくて、2回続けて読み上げるということだった。最初の披講者、濱山哲也さんの披講を聴いていて分かった。初めての経験であった。
宿題4題の披講が済むと席題2題の披講、そして私の特別選者選「骨」の披講。どの選者もハキハキとした良い披講であったので、私も美声?を張り上げて披講した。
表彰式は、先ず特別選の天地人に入賞された方の表彰で、副賞は私の下手なサイン入りの句集『観覧車』、私から授与させていただき、3句について簡単なコメントを読み上げた。
続いて成績発表。トップ賞から20位まで景品付きの表彰があった。
その後、私の総括メッセージ、夕べ書き留めたメッセージを読み上げたのだが、最初と最後だけ瞬時に考えてたフレーズを付け加えたのであった。
メッセージの内容(全文)
青森の川柳オリンピックの終了しました。
青森県の川柳のレベルの高さは承知していましたが、今日はその理由をかい間見る思いがしました。
第78回目ということは終戦後2年目から始まったということですね。
戦争で打ちのめされた日本人に、いち早く短詩型文芸の素晴らしさと、その伝統を復活させようと頑張ってくださった東奥日報社とそのスタッフの方々、青森県の川柳愛好者に改めた敬意を表します。
皆様に金メダルを差し上げます。本日はありがとうございました。
このあと、主催者の閉会の辞があるのかと思ったのだが、司会者はこれを持って閉会とします、と述べて終了となった。
川柳人以外の団体が実質的に主催する川柳大会は初めての経験だった。
このあと、同社主催の「青森県俳句大会」「青森県短歌大会」が年内に開催されるそうです。毎年です。こんな新聞社って他にないですね。われわれ短詩型文学愛好者にとっては願ってもないこと。同社のますますの発展を願って止みません。
大会終了後はJR青森駅の近くの居酒屋に集結して懇親会。
名目は一応「柳歩さんを囲む会」ということで、会費も払わずに飲み食いさせてもらった。久し振りに哲ちゃんやまみどりさんとも会話。その他、お名前だけは存じ上げている方々、初対面の方々、総数17人ぐらいだったかな。皆さん酒豪揃い、私はやはり中ジョッキ2杯で出来上がってしまった。
頃合いを見て恒坊さん(T氏のことですね)が高らかに袋回しの開始宣言。展望大会の袋回しでご一緒した工藤麦の芽さんによって、句せん、封筒も用意されていたのであった。
参加するもの10人、テーブルの上のお酒、つまみ類を片づけて最小限の記入スペースを確保し、3分間出句無制限の袋回しに突入したのだった。
結果のマトメは早くも昨日夜、恒坊さんから添付で送られてきたのであった。
翌日は朝8時ジャスト、恒坊さんがホテルまで迎えに来てくださり、弘前城に向かう。お言葉に軽く乗ってしまったが、目的地まで高速道路を利用しても一時間強もかかる。申し訳ないことだった。
弘前城は折しも石垣の回収作業中で、天守閣は移動させて平地に平積みされていた。内部は同じ。城はたくさん見てきたがこんなことは初めて。かえって面白かった。弘前城の桜は見られなかったが、紅葉がまた素晴らしいとのこと、想像できた。青森はねぶた祭りが済むと一気に秋に入ってしまうとお聞きしたが、名古屋に比べたら超涼しい日だったが、それは想像できなかった。
その後、新青森駅まで送ってもらい帰途に着く。冒頭にも書いたが、三日間を通し、恒坊さんにはホントにお世話になりました。ありがとございました。
心配していた新幹線もほぼ通常通り運行し、無事に帰宅できました。
私の川柳人生も終焉に近付いていますが、もっとも印象に残る体験ができて幸せな旅でした。
ひとまず、これで青森遠征記を終了します。
きゃはは、結局袋回しをするんですね。笑いました。
熊野在住の「文宴」同人が、熊野には地方紙が2紙あることを、文化水準の高さの証明としていつも自慢されますが、確かに地方紙の存在というのは文化事業にとっては大切なのかもしれません。
俳句・短歌・川柳そろって大会を主催されるというのもうれしいですね。
ところで、お話の内容(カットされたところも含めて)は、どこかで活字になるのでしょうか?
恒坊さんが12日の朝刊を買って?きてくれました。
一面に知事賞(最高得点者)に輝いた、にじの真美さんの顔写真とコメント。私の特別選と席題(田鎖晴天選)で天位を獲得され合計17点でトップでした。
柳歩選「骨」 つままれた骨がくすぐったいと言う
のコメントでの作句の背景が、ほぼ私の選評と一致していました。
22面に大会の模様と結果が掲載されており、私の講演の概要が書かれています。入選作品と講演要旨は21日付文化面に掲載予定です。とあります。「レジュメだけで原稿は渡してないのに書けるのですか?」と恒坊さんに聞いたら、それは新聞記者だからまったく大丈夫です」とのことでした。新聞の当該記事はコピーして例会の時に回覧しましょうか?
ナビを頼りに義兄の家に行く途中
鈴鹿はもう新米の刈り入れが始まっています。
改めまして、柳歩さん、無事に帰国? おめでとうございます。
昨年の青森、思い出しています。
皆様
とうちゃこ報告ありがとう。
東京より以北
大阪より以南の方のお家にも届いたコールが
届きます。
なによりです。