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目次06年7月(大会)号 |
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巻頭言 | |
大黒屋光太夫
二十回大会無事に終了しました。参加いただいた皆様ありがとうございました。 日本人で初めてロシアに渡り、気の遠くなる年月を耐え抜いた一人の男。大黒屋光太夫の簡単な略歴一七五一年鈴鹿市南若松に生まれる一七八二年白子港から光太夫を船頭とした神昌丸、江戸に向かう。漂流一七八七年光太夫ら九人シベリア本土カムチャッカに移る。一七八九年何度も帰国の願書を出すが却下される。二年後、女帝エカテリナ二世に拝謁後、帰国を許可される。一七九二年十月七日根室帰着。一七九三年磯吉を伴って松前に到着。一八二八年光太夫番町薬園内にて死(七八歳)吉川弘文館発行、亀井高孝著「大黒屋光太夫」には、光太夫が十年も長い年月を異国で耐え帰国に駆り立てられたのは、郷土に残した人たちへの想いがあったとある。
だが、いろいろ調べると帰国十年後鈴鹿に戻った時には、妻はすでに違う家に嫁いでいたようだ。光太夫も江戸は薬園内で結婚をして子どもも生れていた。鈴鹿市若松の「光太夫記念館」では、光太夫にまつわる記念の品が展示されている。また、今年に入って甲賀市図書館で「磯吉聞書」が見つかったと朝日新聞にて発表された。光太夫顕彰会より、会報も発行されている表。紙の切手アートは、光太夫(左)と磯吉、写真はなく、ロシア人のスケッチしたものである。 |
すずか路より | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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誌上互選より 高点句(一人5句投票) | |||||||||||||||||||||||||||||||
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