「人の文章を直す(下)」 ふだん編集作業をするうえで私たちが「校正」と言っている作業内容には、厳密にいうと「校正」と「校閲」と「添削」が交じっているような気がする。 『新明解国語辞典』第八版によると、「校正」は「原稿や資料などとつき合わせて、文字や図版の誤りを正すこと」とある。つまり、たとえ原稿に誤りがあったとしても原稿通りの形にするのが、厳密な校正である。とはいえ柳誌や同人誌の編集作業で明らかな誤字、脱字を正すのは、校正のうちと考えて差し支えないだろう。 これに対して「校閲」は、「書類や原稿などの誤りや不備な点を調べて、加筆訂正すること」とある。誤字脱字はもちろん、文法上の間違いや内容の明らかな誤り、あるいは表記や文体の不統一、さらには不適切な表現のチェックや訂正が、これに当たると思う。新聞社などで表記に関わる内規があれば、これに照らし合わせるのも校閲の仕事だろう。柳誌や同人誌の場合、執筆者の了解を得たうえで訂正するのが望ましいが、時間的な制約もあり、場合によっては編集者一任もやむを得まい。 これが「添削」となると、少々話は変わってくる。『新明解』によると「添削」は、「〔他人の依頼を受け、指導するために〕その人の書いた詩文の、むだ(不適当な所)を省き不足を書き加えて、良くすること」とある。この「他人の依頼を受け、指導するために」が、なかなか微妙なところを突いている。つまり、明らかな指導者たる「主宰」(『新明解』によれば「多くの人の上に立ち、中心となって物事を行うこと(人)」)を頂く集団なら、たとえ依頼をしていなくても主宰の添削を受け入れやすいだろうが、上下関係の意識が薄い集団(それが悪いと言っているわけではない)では、たとえトップが「良くすること」を目的に添削しても、あらかじめ断りがなければ、執筆者が「依頼していないのに余計なことをされ、かえって悪くなった」と感じることもないとは言えまい。また、事実上の添削が、一編集者によって「校正」の名のもとに行われる場合があるとすれば、少々問題があるのではないだろう 久美子
整理・柳歩